ガダラの豚・中島らもの見えないものの見方2017.08.8
いい暇つぶしはないかと友人に訪ねると、元オウムの上祐さんがラッパーの漢のネット番組で
インタビューを受けている動画を勧められた。
じょーゆー久々ぁ~ とか笑いながら思いながらサクサクと宗教や哲学の話をしている彼をぼけーっと見ていると、
自分も社会も時間が経ったのだと思う。
昔、私と家族が通っていた教会の目の前に、ジャーナリストの江川紹子さんの家があったことをふと思い出した。
地下鉄サリン事件が1995年、「ガダラの豚」は1993年出版ということで、「その時代」を先取りした中島らもさん。
物語は呪術をキーワードに展開していくが、新興宗教、超常現象、未知の世界、アフリカ、
テレビなどが絡み合ってどんどん黒く早くなっていく。
らもさん自身は科学的ではない魔法のような力については「塀の上を歩いています」という立場とのことだが、
どちかかに偏っているならばこの話を書く気にはならなかっただろう。
人間、見えないから見たいし、分からないから知りたくなるのだ。
そして、それは大抵がおぞましかったり耐え難い結果だったりするのが現実だろう。
そうじゃなきゃ本当なはずはない。
「ガダラの豚」の見えない力はアフリカ呪術の闇の力であって、力が向かう方向は癒しとか幸福とは逆の性質へ向いている。
その辺りがなんだか時代を象徴している気がするし、未知への誘惑をことさらに感じてしまう。
この話は当時の社会がそういう精神世界を欲しているから生み出されたと思うし、現代をみればそれも然りだ。
物語では終始、呪術が果たす争いの調停的役割や、人間の思い込みの力を利用する施術などを冷静に見つめているが、
しかし、未知と人為的なものの境界線は極めて不明確なままになっている。
ただ、世の中には考えたり知ろうと思えば意味がわかることももちろんあって、話中に折り込まれたテレビやドラッグの
世間的常套句をコケにする感じに、らもさんっぽさがこもっている。
冷静になってもわからないことがある。説明がつかないからそれがつまり未知の力であると、
そのまま鵜呑みにしないでじっとそれを見つめているような。らもさんの哲学はそんな印象だ。
こういう人にはどんな真実が見えているのだろうか。かっけー
クリスチャンホームで教会生活という白い世界で育って、漆黒のジャングルでアヤワスカを飲むような真っ黒を知った
私の立場としては、未知の側面が白くも黒くもあって当然だと思っている。
綺麗に除菌され切っている世界に嫌気と鳥肌が立つのも、汚い言葉に知らずに嫌悪感を感じていることも、
どちらも正常な反応なのだ。
私はガダラの豚がとっている、完全に素面だけど、なおも感覚を頼りにするようなバランスのものの見方がとても好きだ。
その感覚の持ち方が重要で、それは抜く時と場所を選ぶ刀のようなものだ。間違えると、底なしの闇に酔っぱらいながら
どこまでも吸い込まれそうになる。
なので、えぇと、日々感覚は磨いておきたいものですね、あぁ、おそろしやおそろしやおそろしや。
そんなヒンヤリした気持ちになってしまう、ガダラの豚でした。
暑い夏にはもってこいかと思います。
よくわからない落ちになってしまいましたが、ぜひぜひ、ご一読、おすすめです。