紙の本が語ること2018.08.27
石井飛鳥さんという方のツイートで「電子書籍、便利なんだけど『親の本棚』が家に構築されていないのは将来的に人類にとってヤバイ予感がする。」というのを見て、あぁ、なるほどねー、の一言がこぼれた。
サラリーマンがお昼に入る定食屋にはその日の新聞や週刊誌があるし、お洒落なカフェにはデザイン雑誌や写真集、文字の少ない本が置いてある。
ゲストハウスに泊まるとき、本棚を端から端まで眺めるのは楽しみの一つだ。
メキシコにあるカサカサという日本人宿には、政治思想やサブカルチャー本が詰まった印象的な本棚があった。既にお亡くなりになった宿の創始者のカサギさんの想いが伺える棚で、壁画よりも本の写真を撮ったことを想い出す。
ボリビアの名もない小さい町の宿では太宰を見つけ、会ったこともない旅人の旅に思いを馳せた。
大学教授を親に持つ友人のノブの家は壁一面に本が数えきれないほど並んでいて、適度に乱雑に陳列されて埃のかぶっていない本たちは、その背表紙に今も手が伸びていることを物語っていた。
我が家の本棚らしい本棚は倉庫の奥にあり、ビニール紐で縛られたキリスト教関係のものが9割といっていい。母は一度読んでも内容を忘れてまた同じものを買っている。
その遺伝子は見事に子へと受け継がれた。
思い返せばそんな具合で、店でも家でも、本は黙って表現する。
中原昌也さんは、「本は読まなくてもインテリアとして飾ればいい、皿だってそうでしょ」と言っていた。ゼミの教授は「本棚の端っこに何気なく卒論があると子供にも自慢できるぞ」と冗談半分で仰っていたが、頷けるものがある。
今、日本へ帰国するために本の選別をしている。
図書館にも置いてあるものとそうでないものを基準に選別していたが、もう少し考えてみようか。
本に込められたメッセージはどこまで後世に残るだろうか。知っての通り、受け取る側は能動的ではない。誰が書いているか分からない書評をネットで手探りするよりも、友人や家族の持っている本には血がかようのではないか。それか少なくとも、その人の人ととなりを知れて面白いのでは。
月並みごめん、やはりアナログには、デジタルに越えられないリアリティが込められるんだよなぁ。それが魅せるマジックが・・・。(はい、ここまで。すいません)
我が家の本棚の最後の1割の中に大判でしっかりとしたペーパーバックの本があった。
「地球の上に生きる」というタイトルのそれは、まさしくヒッピームーブメント最盛期に書かれたであろう自給自足の教えの本だった。
「親戚の誰かからもらった本だと思うんだけど」母がそう言った時のちょっとドキッとした感覚、よくよく覚えている。
その本は私の大切だった人の手元へと渡っていった。
今もどこかで誰かに静かに、何かを語りかけていることを願っている。