イベントレポート・「とある村」の夏休み〈体験型農村フェス〉その22019.09.4
なかよしデパート、Eishin&the Meditationalies, Watanabeach、青谷明日香。
みんな秋田出身の音楽家だ。出展、マッサージやサロンも。
紙芝居、イワナのつかみ取りは近所のおじさんと奥様達。
本部やPAブース、休憩スペースのテントや椅子、テーブル、夜の導線用LEDは観光協会や近所の集会場から。
野菜の収穫体験はサモンの畑で。
水は沢の水。
授乳室はサモン自宅(結局誰でも出入り自由な家だった)。
運営金は助成金とサモンの自腹。
県外からの混入物はショウゴ君と私くらいのもので、お客も近所の人ばかり。刺巻の住民にはフリーエントランスのチケットが事前に配られている。
つまり、ご近所さんのフェスだ。
ネットでのチケット販売もしていたが、知り合いのそのまた知り合いくらいで全員が完全に繋がってしまえる規模だろう。
フェスと呼ぶにはある意味内輪、もしくは地域密着といえる。結果として。
共生とか共有とかいうことに関する切り口だと、サモンの考え方は一般的なフェスのロジックと違う角度からのアプローチだと思う。
彼はオーガニック、無農薬で野菜を育てているが、そういう思考の人はそこからみえる自然の循環という視点でイベントを構成する場合が多い。例えば福島の漠原人村だったり、滋賀の山人水(やまうと)のような祭りだ。客層や出店も多様性をうたってはいるがある意味排他的でクローズドな世界観がある。誰も自民党に投票はしない。社会という大きな枠でみると偏っている集まりだ。
サモンの想う共生はもっと社会との接点が大きい。
「人と関わるのが嫌だったらわざわざこんなとこに住まないよ」
奥さんの愛子ちゃんがぽろっと言った一言は印象的だ。
というのも、田舎に移住する私の友人の大半は地元住民との人付き合いはできるだけ少ないほうがいいと思う人が多いからだ。
ただ、自然環境が厳しい場所や人口が本当に少ない所は必然的に人との接点がないと暮らしが成り立たない。
近隣と関係があるかないか、どちらがいいとも言わない。
ただ、近所に住む80歳を越えたおばあちゃんがトイレで会場の音を耳にし、おめかしをしてふらっと登場する「フェス」がいったいいくつあるだろう。
トラクターを乗り回し仮装姿で登場する普段は普通のおじいさんはどこにいったら見られるのか。
市長は他のフェスにも来るのかな?
「誰も置いて行かない」
このイベントのオーガナイズの原動力はこの一言に尽きる。
閉鎖的な村落では新参者の若者に発言権はない。それでもサモンは4年間でいろいろな所へ顔を出し、様々な生き方、年齢の人と繋がってきたのだろう。そうでなければ刺巻でみることはまずない「多様」なフェスの形がこのように成立する可能性は絶対にない。
出る杭は打たれるのが小さな社会では当然だが、打つ方も巻き込んで、みんなでやる。
面倒な意見や人を無い者にするのでなく、彼等にも意味のある場所と時間の提供を通して地域に分散する輪を一つにしようとしている。
じゃぁ、イベントの内容に込められた中心のメッセージは何?
刺巻、その里山としての魅力だ。
ステージの背景に広がる緑の田園、背中には大きな林、綺麗な水の流れる沢、気立てのいいおばあちゃん、夜の静けさと朝の爽やかさ、トンボやカエル達、下界から遮断されたように緩やかに流れる時間。
想像力を働かせれば、それは刺巻だけでなく日本のどこにでもある「とある村」の魅力に気が付くということだ。
田舎に帰って遊ぼうぜ。
きっと、そんなことが体現したかったんじゃないの?ねぇ?
と、一ボランティアスタッフの深読み。
続く。