両親とのラテンアメリカ旅行2018.01.16
1月の半ばから2週間ほど、日本の両親がこちらへ旅行に来ることになった。
始めは、「ツアーで5日ほどコスタリカへ行くよ~」という話しだったがその法外な料金に私が耐え切れず、
メキシコとコスタリカを2週間一緒に旅してはどうかと提案したのだ。
地球の裏側まで来るのに5日だけなんて・・。
その時間の感覚は私にはもう理解できなくなってしまった。
社会に出でからずっとふらふらしている私だが、どこかで誰かのアテンドらしいアテンドをするのはこれが初めてかもしれない。
両親は英語もスぺイン語も話さないし、海外旅行の経験も数えるほどもない。
母の和子さんは私の姉のアフリカへの引っ越しを手伝うというトリッキーな旅をしたこともあるが、あれは本当に引越しと孫のお守りとサファリだけの旅だった。
夫の友治さんもあちこち行くような人ではなく家が好きな父親で、会社が終わればちゃんと帰ってきて我が家で晩酌するのが日課の人だ。
さらに言うと、我が家には自家用車がなかったり、夏休みの旅行といえば決まって通っている教会のキャンプに行くのであって、家族旅行らしい旅の記憶は薄い。
そう、これは小さな世界にいた子供の頃には感じなかったことだが、我が家は貧しくはないがとても質素な家庭だということ。
私の家は外食も殆どしなかったし週末に遠出もしない。
ベッドタウンのどこにでもある家庭の中で、ひっそりとした暮らしだった。
ただ、一つだけ違っていたことがある。
それは、両親が熱心なクリスチャンであるということだ。
毎週の日曜日は100%、近所の教会へ礼拝に行った。毎朝の朝食の前には家族そろって聖書を読んでお祈りをする。昼飯と夕飯にも食前のお祈りをして、学校と会社へ出る前には必ず玄関で和子さんが肩に手を置いて出発の祈りをするのが日常だった。
そして友治さんと和子さんはチューをして出発するということがアメリカーンなホームであるということを知ったのは私が少し大きくなってからだったが・・・。
とにかく、我が家は教会を中心に回っている少し珍しい愉快な家族だった。
話しが脱線してしまったが、そんな63歳になる和子さんと友治さんと10年間ぶらぶらしている反社会的な放蕩息子が久々に一緒に過ごす2週間の海外旅行がどんな意味を持っているのか、なんとなくお察ししていただけだろうか。
普段は旅の予定はほとんど立てない私が航空券の手配から持ち物のアドバイス、移動の時間割にレストランの検索なんかを初めて使うTrip advisorやExpediaとにらめっこしてあーでもないこーでもないと悶々としているのである。
この作業と妄想との苦闘は私には苦痛の一言である。
がしかし、これはこのタイミングで、息子としてやるしかないのである。これは言わずともこの年代の皆さんには分かっていただきたい、筆舌に尽くしがたい感覚だろう。
家族との旅行というと、冒険家の椎名誠さんの小説「パタゴニア あるいは風とタンポポの物語」が頭に思い浮かぶ。日本に鬱になった奥さんを残して椎名さんがパタゴニアを旅する話で、本当の旅や冒険の境地とは何かについて考えさせられる一冊だ。
若い頃は家族や親という存在が小さいもので、目の前に広がる広大な世界に魅了され圧倒されることに心を奪われてばかりいるが、実はそこにいつも存在している家族や他者についての考察に至るかどうかは人間性の大きな分岐であると私は思う。
今度の私の旅は決してシリアスなものではないが、旅が終わるころにはきっとまた新しい家族の風景が見えるのだろう。
もしかしたら、その時には私が息子として気持ちを表現する言葉を持っているかもしれない。
今回はシリーズで続編に続きたいと思います。
ご期待ください。