4度目のVipassana 瞑想2019.07.5
Vipassana(ヴィパッサナ)瞑想とは簡単にいうと、ブッダが悟りを開くために実践した瞑想方のことだ。10日間、誰とも話さず、目も合わせず、菜食の食事をとって、あとはひたすら瞑想を訓練する。そんなことをするための場所が日本にも2ヵ所ある。詳しくは以前のnoteをご覧ください。
Vipassanaに参加するのは4回目だ。
目的は毎回異なるが、生活の変化があったり、精神的に節目が必要だと思った時に深呼吸する感覚で参加していた。
瞑想の訓練は厳しいが、私にとっては下界で感じる人間の毒や匂い、音、情報にまみれているよりはよっぽど気楽な10日間だ。
今回参加した理由は半年も続いた沖縄でのサトウキビ刈りで弱った体を労わることと、移動の連続でマグロ状態になっている頭を冷やすことだった。どちらもvipassanaの目指す究極の目的である「解脱」とは程遠い世俗的なものだ。しかし、心身のどちらにも有効な手段であることは分かっている。
参加の理由が毎回違うのと同じで、毎回学ぶことも違う。
重ねた年齢やその時の精神状態が異なるから当然なのかもしれない。瞑想からどんなメッセージを受け取るかは千差万別だ。
今回印象深かったことは意外なもので、それは「清らかな10日間を過ごす」ということだった。簡単に言うと、vipassanaの戒律を10日間守る生活を過ごしたということだ。
世俗での5戒は、殺生しない、盗みを行わない、性的なあやまちを犯さない、嘘をつかない、酒類を飲まないがあって、瞑想中はさらに絶対の沈黙と他人との接触がない状態を求められるようになる。苦の原因を生まないために、言葉、行い、さらに心の中に起こる嫌悪や執着などによって自分と他人を傷つけることがないようにするためだ。
こうまでしないと清らかに晴れ晴れと生きることができないのかと思うとついため息が出てしまうが、数年に一度、嘘でもいいから自分が聖なる者のように生きる生活を過ごすことは単純に気持ちがいい。
瞑想期間中は心身の平安が守られている状態にあると自覚できる。
通り魔に襲われる心配もないし、隣の人に汚い言葉を浴びせられることもない。また自分が逆の立場になることもない。日常では意識していても難しい他人との接触の中で起こる罪や苦しみの感情がここでは起こらない。
自分が正しく暮らしているという感覚に生きることができる。
逆を返すと、こういう印象を受けたということは最近の世俗での暮らし方に辟易していた証拠なのかもしれない。私はブッダではないので、もちろんそれはそうなのだが・・・。
現実の暮らしも、一瞬一瞬が気持ちのいい瞬間であることを願ってやまない。
日々、小さな精進の繰り返しだ。
10日間を終え、たまたま一緒に瞑想に参加していた友人と京都の町で一泊することになった。
早速、やはり、我々は夜の街へと繰り出すのであった。