酒を飲まないという欲望(散文気味)2021.06.16
酒を抜いてみようと思いついたのは突然のことではない。
私生活のごたごた、久しぶりに始まった仕事、増える付き合いなどなど、いろいろが重なって酒の疲労が心身ともに溜まっていた。
過去のブログでも何度か酒との付き合い方をぼやいたことがある。
私と彼との関係は非常に密だ。いつも二人はタイマンで、私の心理精神状況や周りの雰囲気が瞬間の全てにまとわりついてだんだんと憑依されるかのごとく飲み込み飲まれてノイズのように沼のように迷路のようになっていく。
私は飲むペースが早い。さっさとくたばるまで流し込んで、くたばる。そういう飲み方にいつもなってしまう。宴会が楽しいのではない。宴会には飲み切れない酒があるから楽しいのだ。気を使って飲む酒に意味はない。一杯だけなら飲まない方がましだ。
最後の方というかほとんど最初の方から覚えてないし、覚えていたら自分を捨てたくなる。
けっこうな頻度で記憶を無くすので若年性アルツハイマーになる可能性も高い。実際、素面でも誰に何を話したかという記憶もめちゃくちゃ適当だ。(でもこれは別にどうでもいい)
言わずもがな、トラブルも多い(でも正直これもどうでもいい、すいません)
もう飽きてきたのかもしれない。
心身の疲労以外にも酒のデメリット、またメリットもいろいろあることは知っているが、結局は酒に酔うことに総合的に飽きたのかもしれない。もう飽きた。まだ全く飽き足りてはいないが、一生飽き足りないのかもしれないと思った。
体と脳ミソが少しの酒で飽き足りないならば、本当は飽きているはずの酒を一滴も飲まないというのが正解なのかも。
なので、少し酒を抜いてみようと思った。
いつもやさしいのはビールだけだと思っていたし、まだ思っているが、優しいだけじゃもうだめなのかもしれない。
終わりの期限は決めていない。もう一生分飲んだとかは思ってないし、いつか突然飲み出すだろうし、それでいい。
ただ、酒が日常にない生活はそれなりに新しいし、そこに見つかる自分もいることだろう。
もうたいがい全部に飽きてしまって、いろんなことに興味が削がれ気味だ。
でもそれでいい。飽きたら捨てて、何もなくていいならなくていい。でも、これはいる、これだけは必要かもしれない、というものが今必要なのかもしれない。というか、ずっと本当はそういうことをしている人生なはずなんだけど、けっこう忘れていた「探す」という感覚をまた取り戻そうとしているのかもしれない。いや、取り戻さなければと結構必死に思っている。日々に追われて酒を飲んで意味不明になっている場合ではないのかもしれない。新しい自分を自分で掴み取らないとこぼれ落ちてしまうかもしれない。シリアスすぎるかもしれないがシリアスに削ってみるのもそれなりに快楽度は高い。なぜなら酔っている方が今までは普通の自分だったから。俺は快楽に目がない。
ビンタされるように酒を飲まずに起きた翌朝の自分に向き合うとクリアになっている心身がある。
酒を飲まないことが結果として大事なのではない。それは手段だ。目指すのは、飲まなくなったことで始まる何かだ。
とにかく始めるのだ。なにか壮大な何かに向かって。