無職 in Japan2019.07.8
「仕事する気はあるの?」
「いや、ないですね」
数年ぶりに会った“奥様”から、多分純粋で軽い気持ちから発せられるこんな一言がなんとな~く感じ入ってしまう梅雨モード真っ盛りの今日この頃。
5月末に沖縄での仕事を終えた私はその後仕事をしていない。すぐに関西に1ヶ月ふらっと行って帰って来ても働いていないので、収入もなく、自分の家があるわけでもないので実家に世話になっており、今日は雨が土砂降りで、今は部屋の中にいる。
夏は暑いので毎年世話になっている山小屋へ今年も行こうと考えていたが、一人で働けるはずだった避難小屋の話が頓挫してしまって仕事をする気が失せてしまったのだ。
奥さんも子供も今までの定職もない自分にとって仕事というのは何か不可解な存在だ。
生きるためには働かなければならないというが、数年働けば数年働かなくてもよいくらいの銭はできる。度を越えた金のかかる贅沢に興味はない。労働に美学や純粋な喜びを感じなければいけないほど古風な人間では自分はない。それよりも、読みたかった本を読んだり、音楽を聞いたり、散歩したり、普段なかなか会えない人と食事をしたり、旅したり、想像することが人生の至福だと今のところ思っている。
実家の居心地は良すぎて、やはりいい。
両親はこんな息子を育てた性格の持ち主なので、たまに私が家にいるのを煙たがったことがない(感謝している)。私よりもよっぽど家族とは何かを理解して実践している。
そういえば、2年間過ごしたコスタリカでもそんな感じだった。
25人程の大きな家族にホームステイしていた時、仕事に行かずに庭で油を売っているおじさんの姿を何度か目にしたことがある。私を含め、彼らは昼間っから庭のロッキングチェアにゆったり揺られていた。主婦たちは彼等に何を言うわけでもない。大きな家族だと人数が多い分シェア出来るものも増えるので、一人一人の仕事の義務の重圧が少なくて済むのだろうと思う。さらに良いことは、周りの人間が、その人が無職であることに対して何も言わないことだ。これは仕事だけでなく全ての社会的マイノリティが日本社会の中で何故弱者と呼ばれてしまうかと同じ根本的原因を言い表している。あの人は無職だから、あの人は障害者だから、あの人はゲイだから、あの人はアル中だからと社会が定義づけると、本人は自分の持つ問題よりも社会の中の居場所や立場に苦しむようになってしまう。
だからさ、無職の人間にも色んな理由や思想があってさ、とりあえずほっといてくれればそれでいいんだよ、え?と、いうことだ。
ひがみなのか蔑みなのか心配なのか失笑なのか分からないが、仕事をしていないことが今の私のそんなにも大切な部分を占めていると考えられてしまうのであれば、その考えは侘しいことです。
と、いうことで。
※次の旅立ちに際しまして筆者の私はただ今、中古の軽バンを探しております。何かいいお話がありましたらご連絡いただけますと、大変うれしいです。この場をお借りしまして、よろしくお願い致します。
久しぶりの下界の焼けるような真夏を待ちわびつつも、梅雨の柔らかな恵みを感じています。
皆様も、どうぞ柔和な今日を過ごされますように。