教会へ行く2019.07.11
ちょっと前、二日酔いの体を癒すために近場の温泉を探すと、板橋に一つ見つかった。
平日の昼間だから空いていてのんびりできるかなと思って行ってみるが、湯船は人でごった返していた。40代かそれ以上の人達がほとんどだ。
私の知っている温泉といえば北海道の田舎の公衆浴場の光景がほとんどだった。そこでは肉体労働で引き締まった体のおじさん達が挨拶を交わしながらシャキシャキと湯に浸かり、熱々のサウナに入っては水風呂に飛び込むような男らしい風呂の入り方をしていて、かっこいいなぁと思わされたものだった。
それに比べると板橋の方は満員電車さながらだ。地獄の窯に入ってんじゃないんだから。少しは幸せそうな表情でもすれば良いのに。とか思っていると、だんだんと同じ湯に入る気も失せてしまった。
そんな話を帰って母親にすると、「あら、みなさん教会に来ればいいのに~」と言ったので、私は座布団一枚!と思って爆笑してしまった。我が家の両親は熱心なクリスチャンだ。
教会へ行ったことがあるだろうか。
海外へ行けば建物は見に行くだろうが、礼拝(ミサ)へ参加することはまずないだろう。
何故だろう。
私がヨーロッパへ行けるなら綺麗な教会の日曜の礼拝に参加してみたいと思う。教会は見物のためではなく礼拝のためにあって、そこでどんな人がどんな顔をして何をしているのかを見ることが面白いだろうに。
礼拝に参加するのに資格はいらない。
献金といってお金を差し出すこともあるが、なければ別にかまわないし、申し訳程度に10円玉を用意してもいい。聖書も讃美歌もそこで貸し出してくれるので手ぶらでいい。小奇麗な身なりをしている人が多いが、ドレスコードはないのでそれも気にしなくていい。
礼拝では何をするのか。
簡単に言うと、歌ったり、お祈りしたり、信条を朗読したり、牧師が話したり、聖餐といってパンとブドウ酒(ジュース)を飲んだりする。
見物だけなら後ろの席に座ってのんびりしていていい。うとうと寝ていても誰も怒らない。
これらが行われる1時間であなたが温泉と同じ効果を得ることができるのか。保証はできない。
癒しということに関して言うなら、礼拝の1時間は「平安」という言葉が私の中ではしっくりくる。ただ、ぼーっと昨今の自分を振り返ったり、他の人と一緒に声を合わせて歌ってみたり、聖書の昔話を聞いたり、確信もない神に祈りをささげるという行為も、湯が連れて行く陶酔という桃源郷という場所に似ている所があるかもしれない。
神の家と呼ばれる教会で、週の中の1時間、心静かに弛む(たゆむ)時を過ごすというのもなかなか乙な感じがする。のは、私だけ、かも・・・。
いきなり十字架から後光が射したり啓示を受けるというショッキングなことはないので、明確なことは何も言えないけれど。
私が久々に教会へ足を運んだその日は愛餐会といって昼食を皆で一緒に食べる日だった。
私はただ(無料)だった。ラッキー。教会ではたまにただ飯も振舞われるのだ。手作りのカレーとサラダは美味しくて、一緒の席になったおじさんはニコニコと私の旅を聞いてくれ、牧師は勝手に住んでもいいという長野の空き家を紹介してくれた。
隣のテーブルから、もっと食べなさいよと2皿目のカレーが回ってきた。
教会では神による平等があって、湯の様に暖かい家庭のような雰囲気が漂っている。
皆が裸になって湯に浸かっているかの様だ。
不純な評価からすると、現代における神の家はけっこうな名湯なのかもしれない。