「たくさんの文学を読むことによって、自分の持っている経験的な人間の定義が拡がると思うんですよ。人はこんな振る舞いをするのかと。人間の心のパターンとか振る舞いのパターンとか。それがたくさん自分の中に入って来ることによって、多分、人の見方が豊かになる。
音楽でも映画でも文学でも文章でもいいが、知的な行動、活動によって自分が生きていく力を得るっていうことだ。それに対して今の日本は反知性主義があって、こんなん読んだってしょうがないとか、インテリ面して偉そうな顔すんじゃないとか言われるが・・・。
すぐに役立つものではないにしても、本人には大いに役立つだろうと思う」
以上は作家、詩人の池澤夏樹さんのトーク中にあった発言である。
私が音楽や写真以上に読書、それと並行にものを書くことに傾向していくようになったのは4,5年前からだ。幼いころは読書はダサイと思っていて、大学手前まではまともな本を読んだことがなかった。
心身共に弱っていた時期、人と関わりを持つのも大抵億劫になっていた私は家から歩いて3分の所にある図書館へよく通った。20代半ばの男性が朝っぱらから毎日図書館へ通って来るのを見て、受付のおばちゃんは彼の生活、世界を心配したかもしれないが、彼の頭の中はいたって健全な方向へと向かいつつあった。年寄りと子連れの奥さんばかりに見える図書館の中は、本当は時間と時空を超えた感動を秘める場所だと気が付くのにそう時間はかからなかった。
身近なところで言えば、町田康さんの作品は私の心の声を代弁してくれ、植村直己さんや石川直樹さんはいつでも私を世界中の冒険の中にいとも簡単に引き込んでいった。
読書の発見に感じた感動は、中学1年の時に通ったツタヤのJapanese HIPHOPコーナーで初めて見つけた当時は意味わかんないけどなんかすごいBuddhaのジャケットデザインや、思わず音量を下げるが耳を澄まして聞いてしまうキエルマキュウの卑猥なリリックの衝撃にとてもよく似ている。
つまり、そこに芸術の芯を見つけたということだ。
もう一つ、本を読むには理由がある。
文字の世界では辻褄のあうことが沢山転がっていた。もはや今の世の中ちぐはぐだらけなわけだが、偉人や知の巨人の言っていることは頷けることが多かった。
なので、誰かと話すよりもよほど頭の中はすっきりとしていた。
ただ、誰が言ったか知らないが、知が増せば悩みも増すということらしく、私の現実生活が立ち直るまでにはもう少しの時間がかかった。池澤さんのおっしゃる通り、それはすぐに役に立ってくれるものではないのだ。
だが、読書によって自分が人として立っているという感覚が肥えていくのは紛れもなく事実である。
なので、レコードをきりなく掘る人がいると同じくして、夜な夜な本を読む人がいるのもとてもよくわかるのだ。
昨今、読書をする人は減る一方で、そんな時間はない人も増える一方だが、私には何かこう、人としての義務感にも近いものを感じて、今日もページをめくる、真夏のコスタリカの夜であった。