お世話になっている農家さんで不幸があり、納骨の手伝いに行った。
冠婚葬祭はその土地の風習が一番よく分かるチャンスということもあり、友人たちと朝8時から農家さんのお宅に向かった。
礼服など持っているはずもなく手元にあるなるべく地味な色の服を着て行くと、島のおじぃ達は皆野良着姿で集まっていて作業が始まっていた。
最初のうちは何をどうしているのか見当もつかずなんとなくうろちょろとして様子を伺っていると、切り出された竹や色んな資材が軽トラで運び込まれてくる。一体何に使うのだろう。島の人は口数が多いわけではないので質問してもあまり的を得た返事はもらえない。
男性は外仕事、女性は家の中や半外にある炊事の担当らしく持ち場が分かれている。
高齢のおじぃのいるテーブルの椅子に腰かけると私にも仕事が回ってきた。
「お供え物みたいなもんだよ、今作るのは。やり方がちゃんと決まっているからね、頼むよ」
島の植物と紙で作られているのは花や短冊のような飾り。それらは全て手作りで、売り物ではない。朝から大人数が集まってゼロから作られていく。
紙細工でも金銀を使うところや模様の雰囲気は台湾のそれに似ているなぁと思う。
与那国島は地理的に日本よりも台湾の方が近いのだ。
「もうこの島でこういうの作れるのは今ここにいる4人だけさぁ。あんたらがこれ覚えて商売にしたらいいさ、あははは」
竹は旗を支える支柱に使われ、その旗の文字を書くことが出来る人もこの島にはほとんど残っていない。もうなくなるものを見ているのかと思うと内容はどうであれよく見ておこうという気分になる。
お世話になっている農家さんは島の中でも大きい農家さんなので納骨も人手が多く盛大らしい。昼の12時前に大体の準備が整うと、そこには何か戦でも始まるかのような光景が広がっていた。
手伝った人達にはソーキそばが振舞われて、豚肉と昆布のお土産が持たされ一時解散となる。4時になるとまた集まって、家から墓へと皆で納骨へ行くとのこと。
さてさて・・・。
その日の天気は与那国島らしいどよんとした曇り空で、ぬるい風が吹き抜けている。
気だるい昼寝をした後、再び農家さん宅へ集合した。
全身黒に正装して集まった男たちは各々旗を持ち2列になってゆっくりと行列の前を歩く。
後ろには先程つくった供え物を持つ女性や子供、遺骨の入った神輿が担がれて続いている。
もしこれを納骨のしきたりだと知らずに目にしたら、土着の宗教行事の一コマだろうかと思うだろう。参列したのは70人程だろうか。墓に着くまでの街角でさらに自然と人は増えていき、とにかく大人数が墓までの道をゆっくりと静かに練り歩いて行く。
島特有の子宮の形をした墓に到着すると墓石が除けられ、頭と体を白頭巾でおおったご遺族の方々が納骨をする。ユタや祈祷師の出番があるのではないかと思い間近で様子を見ていたが、その出番はどうやらないようだった。
参列者に挨拶があって、あっさりと流れ解散となった。
こんな日にべらべらと島のしきたりや歴史の質問をするのも不謹慎な気がしたので一つ一つの意味や歴史を知ることはできなかった。
ただわかったことは、一日がかりでこんなにも沢山の人が急に訪れる人の死に集まって一緒に作業をする風習が未だに残っていて、そしてもうなくなるということだった。
作業を知っている人間はもう限られているし、若い人にはそれを継承しようとする意志がない。自然淘汰なのかもしれない。いいことでも、悪いことでもない。そういうものだ。
ただ、作業は私にとっては面白かった。その時間は陰気な空気でもなく、たんたんと、時には笑い声も聞こえるような時間だった。時間を多くの人と共有することで遺族が慰められたり力づけられたりするのではないかと私には思えた。
忙しい現代人には無意味に見える作業の習慣には、皆で集まり時間をかけること自体にそれをやる意味があるのではないか。
人口1700余名のこの島には近所から人が集まって何かをする習慣がもうあまりない。
でも、都会には一つもない。
田舎らしい姿を垣間見た貴重な一日だった。