Culture

2017/02/14
忘れる記憶

途上国の田舎町の週末、町中の楽しみなんてものはそんなにない。

日中の刺すような日差しと、乾季特有のろうそくを一息に吹き消すかのような凄まじい風が絶えず吹き抜け、外に出るのさえ億劫になる。

しかし、せっかくの休みに日常の中に居続けるのは退屈の一言につきる。

意味もなく路線バスに乗り込み、隣国ニカラグアの国境まで行ってみることにした。

 

 

私の住んでいるリベリアは、パンアメリカンハイウェイというアメリカ大陸をアラスカからパタゴニアまで縦断する幹線道路上にある。

6年前に自転車でラテンアメリカを旅した時、3分の1程はこの長い一本道の上をただただ真っ直ぐに走っていた。

中米諸国は南北アメリカに比べて治安が不安定で、どこの町に泊まっても「危ないよ、あんた」と何度も言われ続けていたことを思い出す。

当時の日記を見返しても、毎日150km近くを逃げるように走っていた。

 

 

 

 

バスの左側の座席に座り、自分が走ってきた景色を逆走している気分で眺めながら記憶に残っているものを探す。

 

ペイントされたトラクターのタイヤの掲げられた道表示、猿やトゥカン(鳥)の描かれた国立公園のバス停、早朝に水道を見つけて歯磨きしたナショナルバンクの駐車場。

ぽつぽつと印象的なものが目に入ってくる。

ニカラグアの国境手前数キロからは越境待ちのトラックの渋滞が数キロ続く。この景色は印象的でよく覚えていた・・・

 

・・・そのどれもが写真に残した風景だった。

懐かしいと思う反面、その道のほとんどを純粋な記憶として覚えていなかった。

その日の天気、体や自転車のコンディション、食べたもの、交わした会話、キャンプした場所さえも、記憶にない。

毎日必死で自転車をこいでいたはずの過去は、こんなにも曖昧なものなのかと少し仰天してしまった。

 

私は物事を忘れやすい質なので、一度読んだ本をもう一度買ってしまったり、同じ質問を何度もしてしまったりすることが多々ある。

しかも、歳や酒のせいで記憶が曖昧というか、薄まるような感覚が日に日に強くなるような気がする。

死ぬまではっきりと記憶に残る一日なんていうものはそんなに多くはないだろう。

体や精神に経験として蓄積されていく不明確な何かだけが、今思い起こせる確かな唯一の記憶で、それは哀しくもあり、同時に喜ぶべきことなのかもしれない。

 

 

 

 

頭に浮かんできたありきたりな話しの落ちに苦笑いしながら、自分の街への帰りのバスに乗り込んだ。

 

 

来た道と同じバスの運転手が私の顔を覚えていた。

「オイ、チニート(中国人顔)、リベリアまで帰るのかい?」

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