不謹慎な話になってしまうかもしれないが、先日初めて人の死に際に立ち会った。
何故不謹慎かというと、その時私は酒気を帯びていたからだ。
いい具合のジャムバンドのライブを観てご機嫌になった帰り道、土曜、深夜1時の首都の大通りはクラクションを鳴らさずとも気持ちよく走れる交通量だった。
私と同様に酔っぱらった友達姉妹が私のホテルまでの短い距離を車で送ってくれる帰り道の信号待ち、目の前には一台の車が停まっている。信号はもちろん赤で、250㏄のバイクが右から左へ目の前を横切ろうとした瞬間、私達の車の左脇を何事もない速さで同じく250㏄のバイクが現れた瞬間走り去り、そのまま交差しようとしたバイクの胴体ど真ん中にめり込んで行ってバイクは転倒、人がバネの着いた人形のように空へ降り飛ばされた。
一部始終をしっかりと目撃したフロントシートの姉妹2人はとにかくパニック状態だった。
周りがこうだと何故か裏腹にいつも私は落ち着いている。後部座席から2人の肩に手を置いて「Esta bien, esta bien」(大丈夫、大丈夫)と言って二人をゆっくりなだめた。
2人はトランクから小型の消火器を取り出して人の背丈ほどのバイクから立ち上る炎の消化へ外へ出た。私は自分がかなり酔っている自覚があったのでしばらく車の中から様子を見ることにした。
先に姉の方は目の前の状況に疲れたのか車内へ帰ってきた。
妹は消火器の使い方が分からないようでまごついている。私は火を消すために外へ出た。
事故に合った二人の状況はよく分かっていなかったが、動いている気配はあった。特に突っ込んだ方は上半身を起こしている。
炎を消し、もう一人の方へ注意を向けると、男が中年の女性の懐に抱かれていた。
描写はしないが、男の生の見込みはなさそうだと素人の私には見えた。きっと誰からもそう見えたに違いなかった。
女性は男に向かって励ましの言葉をかけている。
男の目は開いているが、焦点は合っていない。
私は彼の目の向いている方向の1m先へ片膝を付いてひざまずいた。
もはやこの先はこの世の話ではなくなるので、おかしな話かもしれない。
が、しかし、私は本心から彼が安らかに眠れますようにと思い、その旨を何か自分でも意味の分からない言葉で彼に語りかけていた。
「また酔ってたんでしょ?」と言われてしまうとオーマイガーなのだが、結果として、私は日本語でもスペイン語でもない音で彼にメッセージを発していた。これは全く冗談ではなく、私の心からの弔いの行動だった。輪をかけて冗談ではなく、これが祭祀や坊さんの気持ちなのだという共感まで得る始末だった。
今少し冷静に考えると、これは相手のためだけでなく、魂が体から抜ける瞬間にその場に残される者のためでもあるのかもしれない。死という人生最高の旅立ちへの見送りが誰もいないというのも心寂しいものがあるかもしれないが、残される側の所在無さといったらそれは旅ゆく者の何倍も大きく、去る人がその残り香を残した日常に居続けなければいけないやるせなさが、残される者には否応無しに付きまとうからだ。
私の死生観はずれているだろうか。ハズレているだろうか。
この世的には「死」にいつも付きまとうはずの哀れや悲しみとは真逆の光が、その時私には見えていた気がするのだが。
飛ぶ鳥、後を濁さず。
救急車のサイレンが聞こえてくると、私たちはもうまた週末のゆるやかな道路を走り始めていた。