職場の学校に出勤すると、Policía(警察)と書かれた白のランクルが停まっている。
「鞄に入ったドラッグを先生がみつけちゃったんだって」
見るからにラリっていたり朝からマリファナの臭いをプンプンさせているような生徒はさすがにいないが、
「ボスから金が支払われない」と困っている高学年の生徒がたまにぼやいたりする。
校庭のゴミ拾いをすれば粉の袋が落ちているし、裏庭にあったボニートな林は
生徒がドラッグやセックスをしに隠れに来るため、きれいに伐採されてしまった。
巻紙が買えなかったのか、ノート紙の燃えカスが落ちている。
こんな具合で、ドラッグは思ったよりもいつも身近にある。
大人たちが子供の問題を口にするときの主役は決まってドラッグだ。
しかしその中身は日本の薬物問題とは少し違っている。
警察によって学校で行われた薬物指導では、大麻、コカインン、ヘロインを摂取させた被験者に
車を運転させてどのような結果になるかをビデオで見せていた。
その後には、なんとコスタリカ(多分)の高木沙耶が話しているビデオを流したではないか。
つまり、ドラッグが何であるのかをコスタリカ人は擦り込みや思想抜きで知っている
(私、高木沙耶さんのことはよく知らないですが)。
そして親や先生の心配事をよくよく聞いていると、コスタリカの子供におけるドラッグ問題は
それに絡む金と組織が原因となってそこでの生活が出来なくなることにある。
子供がドラッグに手を出すのは時間を持て余すからか、苦しさのためか、取引で金が欲しいからかは分からない。
ただ一度踏み込むと、汚い金と組織が小さな町で回っていて、どうしたってそれに巻き込まれなくてはいけなくなる。
無知な子供のうちにそういう世界に入り込むしか選択肢がなくなることは危険であり悲しい。
石丸元章さんが「二十歳まではやるな」と言う理由が分かる気がする。
問題はよっぽど個人よりも他者との関わりの中にあるのだ。
こういう話をすると日本人は勘違いしていてドラッグ自体が悪だとか簡単に言うが、
それはあまり正しくない。(飲み放題規制反対)
今まで日本が見習ってきた国では、もうみんな一服しているじゃないか(私は大麻吸ってません)。
ただ、途上国と先進国ではドラッグの立場が何か違う。
西欧でアートや医療、テクノロジーなどの人類の発展に少なからず大きく貢献してきた「ドラッグ」は、
貧困の世界では社会貢献に達しない。
社会の成熟や暮らしの安心がない場合、ドラッグは暗い所に居座わって、虫食む。
学校で見つかってしまって警察を呼ばれてしまった生徒を見ると、
私は今ここでは諸手を挙げて「大麻解放万歳!!」とは言えないのだ。
問題の中にある問題こそ、本気でみんなが知恵を出し合って話し合えばいいのに、
ドラッグとか売春とかいうことになると誰もが意味不明な見て見ぬふりをしている。
関係なければ自分は綺麗だとでも思っているのか。
快楽を断つという無理を、社会が素面で取り締まっているようには、ここにいると、
日本にいても感じることがどうしてもできないのだ。
どこの国でもマジョリティーは常に終わってる。
だからある人は、社会よりもドラッグを信じるのだ。