Culture

2023/04/18
春の訪れ・修繕・散文

私の住む山間の村でも、もうすぐやっと桜が咲きそうだ。

5ヶ月も茶色一辺倒だった窓からの景色に少しず梅の白い花や気の早い野草が色を添え始めた。

こうなると冬の終幕は一瞬だ。それはそれで寂しい。

忙しない日々への準備が出来ていない体が重く感じられる。

 

毎年のように今年も代々木公園の春の風物詩「春風」へ行こうと友人達と話していた。

しかしこのイベントには「毎年」何かしらのせいで行くことができない。

体調不良や年度がわりのゴタゴタに時間を裂かれてしまう。

今年は雨も重なった。

歳を重ねるにつれて現実は早くなり、同時にスローダウンしているようにも感じる。

 

 

 

「今年の春」の体調不良は喉の痛みだった。

医者へ行くと、暴飲暴食かと思われた原因は熱いものを食べたことによる外傷だった。

先日酔って勢いよく食べたあの鳥の唐揚げだろう。

自分の失態に苦笑いしつつ家路を車で走っているとオイルランプがつき、そしてすぐに点滅し始めた。

幸運なことに200メートル先にチェーンの車屋があったのでそこへ予期していたかのように入って行った。オイルタンクのボルトが抜け落ちてタンクが空になっていた。もう少し走っていればエンジンが焼き付ついていただろう、とのこと。翌日にはボルトが来るのでまた出直すことになった。

保険が適用され12000円かけて村までタクシーで帰宅した。

 

喉の痛みは裁縫針が何本も刺されたようだった。

しかし処方された薬を飲むともうすぐに痛みは和らいだ。

なんと恐ろしいことだ。

痛みにばかり注視していた脳が現実を捉え始めると、読書や掃除や音楽を聞こうという意識が起き上がってくる。

薬の効用をこんなにも実感することは珍しい。

薬だけでなく現実社会にしれっと入り込んでいる様々なカンフル剤についてついつい考えてしまう。

我々は日々、起き上がれと言われて起こされているのかもしれない。

そんなのはいやだ。

私は不自然な春を拒みたい。

 

翌日、村の知人に乗せてもらい再び車屋へ向かう。

自分の車が直り、てっきり乗って帰れると思っていた。しかし、なんとなく心のどこかで予想していた「そんなにうまくはいかないかもしれない」ことが起こってしまい、修理代は4万円、三週間ほど車を預けることになった。

予想を知人に事前にほのめかしていたため、用事を済ませたその人は私を拾い村まで一緒に帰った。

 

何か春はいつも物事の精算的タイミングになる。

とても不思議だが原因を考えることは無駄なのでしない。

ただ何故かそういう周期があるということを認めざるを得ない。

 

 

 

とても感傷的に言いすぎると生と死がある。

そして死の方は何故か自分から突っ込んでいくもので、生は自然に起こってくるような気がする。生より死が先にある。

 

先日は家の軒先で綺麗な鳥が死んでいた。

そして今、ターンテーブルを修理に出そうとしている。

 

春がくる。

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