年末年始には親族や友人との再会があった方もいらっしゃることだろう。
私も数年ぶりにこの時期を実家で過ごすことになり、普段会えない人とたくさんの時間を共有することが出来た。
そんなめでたく有難い機会にも、やはりコロナの話題抜きでは語れない新しい年が始まったことを実感している。年齢や職業、同居する家族など、様々な状況に置かれた人の話を聞くことで社会の中にいかにコロナの問題が浸透しているかということを改めて実感させられた。
同時に驚いたことは、情報源となるメディアが異なることによる認識のギャップや隔たりが大きくあることだった。特に年代間ではそれは如実で、生き方や常識の違いまでもが簡単に起こってしまうのだと他人事のように現実を眺めていた。
そんな実感を覚えながら、今年は一体どんな年になっていくのだろうかとぼーっと考える。
決して楽観視できない状況に変わりはないが、しかし、近しい友人達と共有できる「ある前向きな認識」があることにも気が付いた。
そのことがはっきりしたのはある日のDommuneで、「み・え・な・い・も・の」というタイトルの番組の第3回目「意識と生命」でのことだった。
ZAKさんというBoredomsやFishmansのエンジニアをされている方の企画番組ということでチラッと見始めたのだが、トークにのめり込んで結局最後まで番組を見続けることになった。
番組はいつものように話があっちこっちに飛んでいたが、ざっくり言うと、人間が生きるということの本質、命とは何か。そんな誰もが背負っている人生の命題をコロナ禍でどうやって見出していくのかについて話し合っていた。
今までは、人の中から外へ向かっていた力こそに重要性が置かれる社会だった。しかしこれからは、人の中から中へ向かう力に本質を見出すようになり、それがないと先へ進めない状況に既になっているという認識だった。
私が友人と共有し、番組でも登場した「ある前向きな認識」とは、社会や自分の体の外の世界に引っ張られて生きない生き方の重要性だ。もっと言うと自分自身の「中」と繋がることの必要性についてだ。
たとえば、同じことをやるにしても、外からの力でひっぱられてそれをするのと、自発的にそれをするのとでは、全く違う行為になる。今までの社会は人間の自発的なものが起きないようにする仕組みになっていて、常識や均一を追い続けてきた。しかし、それは本来人間が持っている命の在り方と矛盾するもので、多くの人はそれによって人間性をなくしている、というのがなんとなくの話の流れだ。
外の世界や社会、他人、共通認識にしか興味や意義、価値を見出せないという世界が本来あまり意味のないことだと自覚して、無意識の状況に近い感覚で生きる個人の尊厳の尊重がこれらからの時代の命の価値観をつくっていくことにほぼ間違いないだろう。(という個人的断定と希望)
これは精神世界とかスピリチュアルの次元に向かうという話ではなく、単純に自分が生きていることに気が付く人間性の回帰運動のようなものだ。それは、「全てにおいて喜びしか意味がない」というZAKさんの一言に集約されていると思う。
トークの細部に芸術の意義と眠りの必要性が沢山でてきたことも勇気づけられる要素だった。今まで必要なかったと思われることに価値が見出されるようになるのだ。それは、いいことだ・・・(私にとって)。
Dommuneにゲストで登場した医者であり大学教授の稲葉敏郎さんという方の本「ひとのこころとからだ いのちを呼びさますもの」からの引用で、全然まとまらない年始のnoteをまとめさせて頂きたいと思います。
「現代は、外向きの社会的な自分と、「いのち」を司る内なる自分とが分断されようとしている時代だ。多くの人は、外の世界に向けた自分をコントロールすることに明け暮れている。テクノロジーが情報化社会をつくり、そうした動きを後押しした。社会の構造も、人間関係もそうだ。外なる世界を強固につくり上げればつくり上げるほど、自分というひとりの人格が外と内とで分断されていくという矛盾をはらむ。なぜなら、外へ外へと視点が向きすぎると、自分自身の内側とどんどん離れて行くことが多く、自分自身との繋がりを失うと、他者との繋がりは空疎で実体のないものになるからだ。
見るべき世界は外側だけではなく、自分自身の内側にもある。自分自身は、外ではなく、常に「ここ」にいるからだ。自分自身との繋がりを失うと、自分自身の全体性を取り戻すことはできない。なぜなら、自分の外と自分の内とを繋ぐ領域が、「繋ぐ」場所ではなく「分断」する場所として働いてしまうからだ。」
ことしも皆様にとって素晴らしい年となりますように!
The Companyをよろしくお願い致します。