「中米のスイス」
コスタリカがこう呼ばれることは日本人だけでなく外国人もコスタリカ人も知っている。
しかし、ここでの暮らしも2年が過ぎようとしている今もその所以を感じることはなかった。
政治や国民性にはそれを感じることもあるけれど、その他には外国人の私にスイスを連想させるシーンはなかった。
なんせ私の住んでいる町は標高も低く年中暑くてケニアみたいだし、首都の街並みや空気はお世辞にも美しいとは言えない。
山の町にはコーヒー農園や酪農を営む農家さんたちの牧歌的風景が広がっているが、スイスという澄み切って洗練されたイメージとは何か違う。私が2年間貧しい人と仕事をしてきたこともあって、生産者の暮らす土地というのは東ヨーロッパの影を想わせる風景のような感じがどうしてもしてしまう。
「結局は、山があって涼しくて他の中米の貧しい国よりもちょっと裕福だから大袈裟な人がスイスとか呼んでるんだねー」と勝手に合点してこの国を去ろうと思っていた。
が、私はいきなりスイスへと招かれることになった。
首都からさらに山をバスで登り、終点で降りて未舗装路を歩いて行く。
高い松の木を背にして、友達の家は霧の中にひっそりと佇んでいた。
手の込んだ庭と洒落た木造りの家はホテルかと勘違いする程に広々として美しかった。
庭を下るとそこは羊や鶏がいる農園になっていて、脇には野菜や果樹の畑が広がっている。
バルコニーは蘭やカサブランカに囲まれた「花園」だった。
6人分は作れるだろう大きなマキネッタを奥さんが持ってきた。
「毎日雨が降るわ。静かでいいでしょう、ここ。25年前は何もなかったのよ、ただの農場だったの。」
鳥や虫、飼い犬と遠くの家畜の声、雨音と風だけの静けさ。
普段どれだけ自分の日常が音に囲まれているのかをつい考えてしまう。
ただ花を眺め、ぼけぼけとする。
ふと、サックスのソロのBGMが流れ出した。
と思ったら、それは向いの山から聞こえる誰かが練習している音だった。
私は今、スイスにいる。
手料理やワインのおもてなしをうけ、もうすっかりご機嫌になってしまった。
目覚めた朝も、そこはまだスイスのままだった。
もうお気づきでしょう、友達家族は裕福だ。
そりゃぁ想像されるスイス国民の優雅さと言ったら世界中でも最高級だろう。
中米の小国コスタリカでスイス国民になれる人は一握りだ。
ただ、いつもなら苦手なはずのお金のかかっている場所の居心地は最高だった。
純粋にこの場所がいいなと思ったことは、家族の暮らしがつつましく、嫌らしさを全く感じなかったからだ。
自然に囲まれた静けさを選んで、世俗的な基準で生きることをしない。
そんな家族は私を大そう良くもてなしてくれ、感動した。
きっとコスタリカにはまだ沢山のスイスが隠れていると思う。
それは裕福な暮らしの中だけに見つけられるものではきっとないはずだ。
人の心のふるさとのような美しさのあるところに、きっとそれは隠れているのではないだろうか。