植物を育てるようになったのは、学校で生徒と苗木を植えたことがきっかけで、気が付けばもうすぐに虜のようになった。
これまで農家の仕事は色々と手伝ってきたが、思えば収穫ばかりがメインで種や苗を自分で植えたことはほとんどなかった。
収穫はスピードが肝心で体力勝負なところがあり男性的だが、植物を育てるのは気遣いやマメさが必要で女性的な作業、心持ちになる。差別的に区別しているのでなく、DNA的な感覚だ。
友人は、植物の世話は恋人や子供との関係みたいなもんだと教えてくれたが、自分で育ててみれば納得である。
今日は元気がないな、水が足りないのかな、日に当たりすぎているのかな、犬にしょんべんかけられたのかな、暑い日が続いているからな、声でもかけようか、と、いろんなことを考えながらじろじろ成長を観察している。
今世話をしている蘭やサボテンの株や苗は、首都サン・ホセに長いこと住んでいる日本人のご夫妻から分けてもらったものだ。
ご夫妻の庭には立派なマンゴーの木を真ん中にして何十種類もの草花や野菜が咲いている。
「この木はこの前までいたボランティの人が持って来たんだけどね、これからずいぶんまだ大きくなるんだよ。だから、隣の幸福の木は切ってしまおうかと思ってね。この幸福の木はこの家に来た時からあるからもうずいぶん長いんだけどね、もうさほど元気も残ってないね。」
よくもまぁ一つ一つのエピソードを事細かに覚えているものだと感心する。
自分の子供や孫のことみたいに緑の色や花の香りのことを話す奥さんはとてもかわいい。奥さんだけではない。植物の話をするときは誰しもがこんなほっこりな感じになるなと思う。
植物の命は手放しで人に任されている。
その世話をしていると、命に触れている優しさに、人間がどこかで知っている一番遠いノスタルジーに有無を言わさず浸らされる感覚がある。植物は人と形も違うし語ることもしないが、環の末に自分と植物は同じ者であるというところに、大地が母である所以を感じてしまうのは、わたしだけでしょうか。
都会で育った人は、畑仕事をする人や自然の中で暮らす人に自分とは違う雰囲気やリズムを感じたことがあるのではなかろうか。
初めて近所の畑を手伝いに行ったとき、農家のおじさんは俺が知らないことを知ってるなと思い、実際にものすごいことを知っていた。(ヒッピーだった)
植物の成長する速さは正直で着実だ。
その時間を経験してみれば、自然と自分もそんな感じになっていくのだろうと思う。(ヒッピーにはならずとも)
それは、大きな円の終わりに、自分の体の外側にある自分の命に触れている感覚に無意識で触れているからだ。
その気の遠くなるようなノスタルジーは言わずもがな、暖かく快地のいい感覚に違いがない。
Down to Earthはやってみれば意外と簡単に分かるもんだ。
やるまでが、ながかったけど・・・。
みなさんも、ぜひぜひ。