外国人の友達から、「東京はビッグシティだね!」と言われた。
なんとなしに、「ああ、そうだよ」と言ったけど、何がビッグシティなんだかよくわかっていなかったのが正直なところだ。
町を空から眺めれば大きさは分かるし、人口を知ればどのくらいの機能が町に備わっているか予想がつく。
しかし、関東平野のどこまでも続くベッドタウンで育った私には町というものの概念がなく、東京の延長にある自分の家は「どの町」なんていうことは全く意識することがなかった。
実際に町の「大きさ」を感じるようになったのは中南米を自転車で走った時からだ。
(コロンビア 2000メートルの稜線に乗っかっている町)
スペインに侵略されたラテンの国々の町はメキシコからアルゼンチンまで、どれも同じようなデザインになっている。
1番大きな教会とその前にあるソカロと呼ばれる広場を中心として町は円形に広がり出す。銀行や両替屋、高級ホテル、観光客のためのサービスなど、大きなお金と人が集まる建物が広場の周りに波紋のように広がり、ひしめき合うように看板が高く騒がしく並ぶ。
そこは町の「顔」となる部分。華やかでいつも賑やかだ。
(ボリビアの首都・ラパス 町の中心に高層ビルが建ち並ぶ)
それとは対照的に、何もなかった国道からだんだんと町が始まるときにあるのはガソリンスタンドと車の修理屋だ。単純にスペースの問題なのかもしれない。この辺りは町の中心にほとんど係わりのない人が住んでいる。スラムでは決してないが彼らの生活は貧しく、掘立小屋は今にも倒れそうだ。マリファナに誘われることも何度かあった。番犬が一番厄介なのもこの辺りで、なんども全速でペダルを踏んだのを思い出す。如何わしい店がある町の場合、それは町中から少し外れたところに如何わしい感じで営業していることが多い。こんな所では心意気のいい人ばかりと出会ったが、その明るさとは対照的な彼らの生活は町の中心に寄りかかっているようだと感じてしまった。
テレビには映らず、観光客が大型バスで通過する町の裾野だ。
(コロンビア 町はずれの峠の掘立小屋の宿)
自転車で走っていると、大きな町の裾野の広さを感じる。
大国になればなるほど都市周辺の裾野はどこまでも伸びていて、それはもはや中心の町の色とは全然ちがう場所のようだ。
それが大きければ大きいほど、興奮と同時に寂しさを感じてしまうのは、私だけ?
「東京はビッグシティだね!」
褒め言葉だったのかもしれないけれど、ある意味裾野に住んでいる自分にとってはなんだか考えさせられる一言だった。
寒くなってきましたが、皆まさ、風邪などひかぬよう。