Culture

2015/11/18
今どきのコミュニティ

京都での10日間の無言のビパッサナ瞑想修行を終えた途端、真っ先にしようと思っていたことがある。

それは、一緒に生活していたが声をかけることが許されなかった彼、そう、多分ヒデ君なんだろうなと思われる彼に真っ先に話しかけることだった。

 

「あのさ、インドで8年前に会ったよね?ブッダガヤで何日か一緒だった、ねぇ?」

「あぁ、え?」

 

こちらが覚えていなければ初めましてのままだったかもしれない。

自分は今坊主頭だし、あちらはヤギのように立派なあご髭を蓄えていて、昔の面影はお互いなくなっていた。

 

「今なにしてるの?」

「仕事はデザイナーだけど、コミュニティの運営を京都の端でやってるよ。畑借りたり、一緒にご飯食べたり、モノづくりしたり。農の生活が好きな人が集まる場所みたいなイメージかな。」

「え、おもしろそう!明日遊びに行っていい?そこ泊まれる?」

 

お互いのインド以来の近況や瞑想の感想もほどほどに、ヒデ君の所へ遊びに行くことになった。

 

 

京都の忙しい碁盤の目から外れ、住宅地の間にちらほら畑が見え始めるとお目当ての古民家「五右衛門」は現れた。

松や置石のある庭や蔵、サザエさんにでてくるような廊下は小さな屋敷のような佇まい。

干し柿や収穫された綿、それを織る機織り器までもが今も現役でそこにある。

敷地の外には合わせると学校の校庭程大きな畑と田んぼがあり、生きのいい無農薬、オーガニック野菜が丁寧に育てられていた。

 

以前住んでいたミュージシャンが越していった後、地域の人でつくられた「くらしごと」という名の団体でそこは運営されていた。

「くらしごと」は会社でもNPOでもNGOでもコミューンでもなく、単純に言えば自治会とそう変わらない。

ことのきっかけは、近隣で田畑や山を住み家とする人たちが、「作業する場所があったらいいね」というところから始まったとのこと。

 

遊びに行った火曜日は週に一度、近隣の人たちが集まって昼ご飯を食べる日だったが、集まった15人ほどの子供と奥さん方はとても生きがよかった。

大きな窯で米とみそ汁を薪で焚き、それぞれ持ち寄ったおかずを皆でいただく。

 

「はじめまして。ヒデ君とは瞑想で久々に会って・・・そう、10日間喋っちゃいけないんです。」

「あらやだ、主婦だって日中しゃべる人なんていないんだから!修行よ!」

「そうそう、糸を紡いでいる時間は気付くと瞑想みたいなものなのよ、うふふ」

 

なんていう会話が繰り広げられる。

外物の自分もすんなりと受け入れてくれる雰囲気がなんとも柔らかい。

 

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 ヒデ君はいう。

「近所の繋がりって生きていく上で必要なことじゃない?でも、地域コミュニティって今少なくなってるでしょ?それ、田舎にはまだ残ってるんだよね。そこにインスピレーションを感じるんだ。こういう中に入ると何か懐かしさを感じるんだよね。昔そういう経験があったわけでもないのに、不思議だよ。中国の大理にいた時も長居していたらその土地のコミュニティにだんだん入り込んでてさ。すごく居心地がよかったんだ。日本でも、そういう場所がもっと必要になると思ってて、「くらしごと」はその一つの手段のようなものだと思ってるよ。」

 

ひで君はデザイナーだが、最近はもっぱらコミュニティデザインに興味があるようで、目に見えないもののデザインのことを考えているようだ。

「デザインをローカライズするのさ」

足元をしっかりと先を見ているなと思った。

心身共に健康的だと思わされる人間を久々に見た気がする。

 

ここに関わる人は総勢60人ほどもいる。

中には二時間かけてやってくる人もいるとのこと。

「くらしごと」にそれだけの魅力があるのも確かだが、二時間かけないとこうした気持ちのいいコミュニティにたどり着けない日本の状況を露呈していることも確かだ。

順番で回ってきてやらなければいけない班長やゴミ当番ではなく、暮らしを共に楽しむという基本的な考え方に、コミュニティの本質を垣間見た気がする。

 

 

ご近所さんは、親戚よりも友達よりも「距離」が近い。

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