青森の奥入瀬渓流へ向かう途中、川向こうに煙をあげる風呂桶のような物が目に入った。
温泉かもしれない。
車をUターンしてしばらく眺めるが人の気配はない。
気になったが、山道を先に進んだ。
数日後、図らずも同じ道を下ってきた。
先日はなかったインターホンが川にかかる橋の入り口についている。鳴らしてみるが応答はない。しかし、橋の向こうには温泉としか思えない桶が湯けむりをあげている。こうなるともう気になってしまい、ネットで調べてみるとここは温泉宿だった。サイトにある電話番号にかけてみるが、やはり返事はない。
しかたなく諦め車に戻ったと同時に、下りからやって来たのは温泉のオーナーだった。
「今日はお湯はってないんだけど、見るだけ見てみますか?」
しばらく廃業していた温泉を新たに立ち上げるため手直しをしている最中だったのだ。湯けむりを上げていたのは源泉を溜めるための桶だった。
私の身の上話をすると、なんなら宿に泊まってもいいぞと言っていただき、遠慮は全くなく世話になることにした。
自分で混浴露天風呂の掃除をして、源泉のコックをひねってお湯を溜める。
オーナーは単純な善意で私に良くしてくれただけだったが、何かしないと申し訳ない。
翌朝仕事をたずねると申し訳なさそうに、「廃屋の解体でもやれるかな?」となり、バール一本で昔の脱衣所の屋根を引っぺがす作業が始まった。久しぶりの力仕事に勢いづき、一日で作業は終わった。
この宿はその昔、吉川英治という宮本武蔵を描いた小説家の定宿だった。
川のせせらぎと程よい標高は物書きにはうってつけの書斎になったことだろう。私も夏場にはこんな居場所が欲しい。
とか思っていたら、もう一つの廃屋の屋根の解体もあるぞという声がかかり、運動がてらその仕事も引き受けることにした。
丸々2日かかった仕事のお礼は、一生死ぬまで好きにこの宿に泊まっていいというパスポートだった。
ついに私にも物書きの扉が開いたのかもしれない…。
旅は道ずれ、世は情け。
そんな言い古された一句が頭によぎる。
宿の周りに生い茂る木々はゆっくりと色づき始めた。
一足早い秋が東北にやってきている。