青森で世話になった友人は長い旅を知っている人だった。
就職を起に数年の定住をしていて、今は好きな音楽に向き合う日々を送っている。
彼に私の旅の話をすると、大好物の料理を目の前にした子供のように熱心に耳を傾けてくれた。
彼は言う。「旅人は風通しをよくするからね」
これは下北沢の本屋、気流舎でも言われた一言だ。よく覚えている。
誰かのために何かをする。それの方法は、家事やボランティアや仕事という形に変わって人と繋がっているのが一般的だ。そうやって自分が生きる術を物質的にも精神的にも人は得る。そうすると、うろうろと地球を徘徊する人間というのはどうやって他者と繋がり、必要なものを得るのだろう。うろうろしていることは、自分にとっては意味のあることかもしれないが、他者にとっての何かになるのだろうか。これは以前からのけっこうな疑問だった。
今回の温泉の旅で初めてゆっくりと日本をみている。
胸まで伸びた髪は田舎では人目を引くが、同じ匂いを嗅ぎ分けて声をかけてくれる人もいる。そんな人は仕事をくれたり居候させてくれたりする。旅の暮らしを知らない人でも面白いと言って私と関わりをもってくれる。金銭や嫌らしさの話とは無関係だ。
肩書のない1人の人間として相手と向き合う機会というのはよくよく考えると日本の日常には少ないことだと思う。それは家族や友達という形に集約しているのかもしれないけれど。今の社会の仕組みや仕事のスタイルが奪っている時間が、本当に大切なものを奪っていることははっきりしている。
私は手渡す名刺は持っていない。その代わりにあるのは異質な経験値と時間だ。今、目の前の人と関りが持てるならば、私はこの2つを提供できる。
それが「風を通す」役割を担うのかもしれない。友人同士をつなげたり、力仕事を手伝ったり、ただお茶をしたり、旅の話をしたり。
暮らしを営んでいる人から私は休息や栄養をもらい、私からは新しい何かを差し出す。
すると旅のページの中に色んな人間が登場するようになって、とたんに色彩は豊かになる。
ガイドブックには名所や美味しい料理は登場するが、どうやって地元の人とその土地を楽しめば良いのかは書いていない。
色んな旅の解釈があるだろうし、もう旅と呼べるものはなくロマンなどないという人もいるだろう。でもそれは違う。旅が目の前でみせてくれている風景は、本当は自分の裏返しの姿だ。何ももっていない裸の状態で世界に放たれ、自分を感じることのできる最良の方法は旅なのかもしれない。
この世的なものさしの生産性などではなく、自分自身に価値があるという実感をすることがうぬぼれでなく最近ある(一人の人間には価値があるということの実感がわいているという意味)。今までの経験が全てのベースになって今に繋がっている。SNSがなくても文章で表現できなくてもかまわない。体がここにあるだけで足りている。
今回の日本の旅で触れ合う多くの人から教訓のように私を見せられていると思う。
全く新しい旅を実感している。
散文失礼しました。