Culture

2018/02/28
両親とのラテンアメリカ旅行・日常という風景

ここまで読んでいただいた方には申し訳ないが、2週間はどの旅行とも同じように平穏に過ぎ去っていった。

細かいことを書いていけば切りがないが、ありがちな映画のようなハラハラやどきどきやましてや感動の涙などはなく、それでよかった。

 

旅慣れた息子にとっては、見知らぬ場所に覚える感動よりも、両親との旅行は日本の日常を想わせるシーンの方が多かった。

食前に読むデイリーブレッド(聖書に登場する「日々の糧」の意味だと思われる)という頭の下がるメッセージを毎朝読み、規則正しい3度の食事と眠りが旅にあるだけで私は家庭の生活をそこに感じたのだ。

 

 

 

 

旅行中は知り会いに会う度に「トモ、お父さんと同じ顔してる」とよく言われたが、それは全くその通りで、食事の仕方、モノの言い方、道の歩き方、立ち姿までもが似ていないとは言えないことによくよく私も気が付いた。

息子と父親の関係とはどこでも大体希薄なもので、それはコスタリカであってもそうだし、現代ならばよりそうなのはそりゃそうだろう。

ただ、私の両親はクリスチャンである。

2人はこの汚れた時代の中にあって、ネイティブアメリカンに言わせればsomethig greatを見る人であり、ネオヒッピーが呼ぶにはアセンションしている存在であって、しかもそれは流行りのスピリチュアリティとは一線を画す筋金が入っている。

私は両親以上に常に神を信仰するという点において、それ以上の人間をこの世の中で目にしたことがない。

が、しかし、両親が個人としてどういう人間で、それを息子がどう感じるかということなど、他人事ほどにどーでもいーことなのかもしれなーいといつしか私は思うようになった。なぜなら、完璧な人間がいないように完璧な親などは存在するわけがなく、大人になった私にはなおさら、血の通った両親であるが同時に他人でもあるということが日に日に明白になっていったからだ。

 

キリスト教の思想は輪廻ではなく天国である。

福島の原発事故が起きた時に沖縄にいた私は本気で両親を沖縄に呼んだのだが、千葉にいた2人は、もう十分生きたからここでいい、電話越しにそう言った。

その時、彼らはもう私やこの世から離れて神と一緒なのだと思ったので、それ以来親に対するいらない心配や憶測は捨ててしまった。

その分、私は私として生きればいいのだと思った。

私は自分にとっても両親にとっても、それは喜ぶべきことではないかと思っている。

 

 

 

 

 

「和子さんと友治さん」と書くとき、和子さんの方が先に来るのは、我が家のことは大体和子さんが決定権を持っているからだ。

子供の頃、私が欲しいものをねだると、いつも友治さんは「我が家の財務大臣(和子さん)に聞いて~」とゆる~く立ち回るのだった。

こんな両親だったので、手を挙げられたり怒鳴られたりした記憶はなく、そして、何をするにも止められずに背中を押された。

我が家の子育ては「教会にお任せ」だったらしい。

従って、私はこのように育ってしまったのだが、両親を何事もなく2週間異国の地でガイドできたことに少しの満足感も感じなくもない。

 

人生で一度切りかもしれない両親との海外旅行は、とてもさり気ないもので、それこそが家族の旅行なのだと神が囁いているかのようだった。

 

 

帰国後、和子さんからメールが届いた。

 

「友治は今日から元気に仕事に出かけました。2人とも時差ボケをあまり感じないです。もともとぼけてるからか・・??

旅行に行って母は元気になりました。

基礎代謝が上がって、体脂肪が減りました。

膝の痛みも気にならなくなって、、。

ホント楽しい旅行でした。感謝!!」

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