私の働いているキャンプ場に朝鮮学校の団体がやって来た。
彼らのような客を招くのは初めてだ。
下見の段階から七輪を持ち込んで味付けされたホルモンを炙っている姿などを見ると、その民族的感覚の違いにやはり自分とは異なる血の流れを感じるものがあった。
キャンプ当日は何かしらのカルチャーショックを受けることになるかもしれない。
梅雨の曇り空にもかかわらず、貸切られたキャンプ場の雰囲気は明るかった。
爆音で持ち込みのスピーカーから代表的朝鮮民族音楽である「アリラン」のロックヴァージョンが流れている。
「あぁ〜りらん あ〜りらぁん アラリィロォォォ〜」
先生は時折マイクで歌っている。
すでにトリップは始まっている。
その名はノスタルジー。あぁ。
全体の会話やアナウンスはハングルだ。
生徒の人数と会場のオーラによって我々従業員は圧倒的にアウェイにとり残された・・・。
しかし、その異世界感は海の向こうを感じさせるものでは全くない。
音楽の旋律や人の挙動に、自分にも流れている血の共振を確かに感じるのだ。(と言っても彼らはもう3世、4世の世代なのだが)
でも、しかし、なんだ、この未体験の感覚は・・・。
血というか、遺伝子が沸き立つような感じなのだ。
これが民族というもののバイブスなのか・・・。
学生は日本の中学生とは全く違った。
肌寒さも感じる天候にもかかわらず川に飛び込み、全員が本気ではしゃいでいる。
日本の思春期特有のあの感じは全くない。私が勝手に想像している戦後の学生のような感じなのだ。
夕飯を作る時も全員がテキパキと有機的に動き、最近は使う人も少なくなった備え付けの古い竈門で上手に火を起こしている。誰かが怪我をしても騒ぐ者はおらず、虫にびびっているような子もいない。無論スマホを誰も手にしていない。
一言でいうと「人間的に強い」。
色々な団体客を見てきたが、こんなにも清々しく気持ちのいい子供はいなかった。
最近はボーイスカウトや自然クラブのような団体でもキャンプ場側に求める要求は結構多く、手間や時間を金で解決するパターンがかなりある。しかし、その不便さという名の作業にこそ都会から離れて山奥へやってきた理由はあるのだ。というか、多くの日本人はもうその作業をすることが能力的にできない。
そんなことを意識することすらも無意味であることのように、ただ淡々と彼らは全ての行程をこなしていく。
統率がとれ、なおかつ自由に個々人がその中で楽しみを享受している。
キャンプファイヤーでブチ上がっていたのは言うまでもない。
上司と私がこんなにも客に感動したことは初めてだった。
というか、その心意気に惚れたと言っても過言ではない。
どういう教育方針だとこうなるのかはわからなかったが、彼らには人としての自由のようなものがある。
このキャンプだけを見れば、自分の子供をここの学校に通わせたいと大体の人は思うだろう。
日本人が何か大切なものを忘れたという台詞は嘘ではなかったのだ。忘れたことすらももう私は忘れていたではないのか。
中南米では「それ」は感じずらいものだったが、隣国の流れを汲む彼らからは確実に「それ」を感じる。
「それ」とは単純に、燃えるような生命エネルギーだ。
肉食って辛いもん食って全力!以上!最高!!!またきてね!