「この世の中には真の美というものがあるからだ。私はそれを何度か見たことがある。つまり、私が偏狭で依怙地で、一種病的の変態心理の持ち主であるから一般的な美に醜悪を見出すのではなくして、一般的な美、一般的に美とされているものが真の美ではないからである。アル中がホッキ貝を焼いている。」
町田康(まちだこう)さんの「末摘果」の一文にこうあって、昨今の日本の様子も相まって、そうそう、そうっすよね、とかいいながらグラスを口に持っていきたくなる雨季のコスタリカの金曜の夜である。
長く、だるい。
町田康さんのことはINUというパンクバンドでその名前を知っていたが、小説家となって言葉に力みが入ると凄みが違う。
時代と読み手を無視して切り捨てるような、自由自在な文体を読み進めるうちについついそのワールドに憑りつかれ、人間のぐちゃぐちゃな部分を浮き彫りにしてはなぎ倒して空に突き放つような。
そこに広がる世界はうっとりするようでもあり、同時に背筋に流れる汗を味わえる、みたいな。
坂口安吾と似てるなと思う。
文学をやっているが、立場はパンクスなのだ。Fuck Youなのだ。
それが一般の人にも、頭のいい人にも、どうでもいい人にも捉えられる可能性があるのが実力だ。
本を読むのはいい子でもなんでもない。
知識に武装された子供が一番危険なはずだ。
むかし、母と一緒にNHKの昼間のトークショーに町田さんがでているのを見ていて、
「この人、なんでこんなとこ出てきちゃんたんだろうって顔してるわね~」
みたいなことを母が言ったのでつい笑ってしまった。
町田さんは打たれたみたいな目をして天才ぶりを発揮しておられた。リスペクト。
でも、私は天才を見ていると怖い。天才は紙一重とかいうけど、俺から見たら120%アウトなんだけどな。
その意味で、社会はずるくも暖かいと思う。
ということで、日本の実家から送られてきた町田康を読み返してます。
私も給料をもらって文章を書いている分際、言葉というものには人よりも特別な思い入れを持っているつもりだが、なんせお頭(おつむ)が足りていない。
町田さんの作品はバンド時代から狂気じみているし、自分以外にかまうことが少ないようだ。だから作品は正直だ。
自分の身から出た殻をかなぐり捨て、真理に近づく方法は各々だが、私は今、本を読まなければいけないという強迫観にも似たものを感じている。
町田さんがバンドや俳優業を経て物書きになっても価値ある作品を残すように、私にも一個として誰かのために作品として何かができるだろうか。
天才ではなくとも、できるようになりたい。
それが、アル中がただホッキ貝を焼いているように。