Culture

2018/04/18
雨季の到来

 

イースター週間を終えた4月の半ば、中米の乾季が終わりを迎えようとしている。

先週、4カ月ぶりに雨らしい雨が私の町でも降った。

子供が家から裸足で道路に飛び出して来て「雨が来た」と薄暗い夕方の空に掌をかざした。

雨季がやって来る。

 

 

 

 

私は気圧が下がって天気に振り回される雨季は気が滅入るので乾季の方が好きだ。

日本にはないカラッとした暑さは心身の向上心を奪っていくが、悲壮感が付きまとうことはない。降り注ぐ日差しは率直に直線的でこの世を照らすことに一寸の迷いもなく、影と光でありのままを単純明快に私たちに見せてくれる。

人間は日差しに射抜かれたように何事もできず日中を過ごす。

日曜日の午後なんかは太陽の力によって生き物全てが消されたのではないかと疑う程に町は静けさに包まれる。

私が一番好きな時間と光景だ。

 

 

 

 

長い昼休みの習慣であるシエスタは経験から学んだもののはずなのに、近大文明とはなぜこんなにも愚かなのか。コスタリカではシエスタはもはやない。

私は職場から家に昼食を食べに帰るのを言い訳に、毎日2時間のシエスタを勝手にもうけることにしている。

それでも地球は勝手に回る。

庭のマンゴーが今年は豊作で、トタン屋根をドカンと叩いて落ちて来る。

暑さに絡まって甘ったるい香りが体に巻き付いてふらっとする。

じいちゃんがロッキングチェアーで居眠りをしている。

ほとんどの家にエアコンなどというものはない。室外機のある家は金持ちだ。

6時前の夕暮れを今日も見送った後も、公園での夕涼みは終わらない。

朝、日が昇る前か、皆が寝静まった夜の10時を過ぎないと私の頭と体は働こうとしない。

 

 

 

 

雨季が来る。

毎日夕方、真っ黒い雨雲から、本物のスコールがやってくる。

空の模様をうかがって、来るぞ、来るぞ、と思って屋根を探し走り、そして、来るのである。

 

洗濯物も ハイヒールも 野良犬も 道路に置かれたゴミも 遊具も 赤いタクシーも 電線にぶら下がったスニーカーも 笑顔の看板も 植木も サッカーボールも、空の下にあるものはみんな雨に叩かれ洗われる。

川は勢いを取り戻し、側溝はすぐにあふれて道中に新しい枝を広げる。

雷鳴と雨音で会話もままにならない人間は、黙っているしかない。

そして、黙っていることができる。

 

結局ここコスタリカでは、乾季も雨季もお天道様にやられているのだ。

 

雨の季節も、またのんびりといこうではないか。

 

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