友達が帰宅するのでタクシーを呼んでくれと私の家の人に声をかけると、「今電話持ってないのよ。うちにいるマリオに聞いてみて」私が「でも、マリオ寝てたよ」と言うと、「いいのよ、気にしないで声かけなさいよ」と言うので、マリオのもとへと戻る。
玄関口から覗くと、マリオは上裸で浜辺のトドのようにソファーで寝そべっている。
「マリオ、大変失礼ですが、友達が帰るのでタクシーを呼んでいただけませんか」と声をかける。こういう時は、少し間違えたふりをして、とても丁寧なスペイン語でお願いしてみる。マリオはまどろんだままタクシーを呼んでくれて「410、もう来るよ」と、車のナンバーを教えてくれた。
つきっぱなしのテレビではラテンのどこかの国の女性が料理をしている。
「ベネズエラだ」とマリオが教えてくれる。
年季の入った鍋に材料と調味料をパッパッと入れていく主婦の手つき。
ペラペラして色あせたピンクのタンクトップを着ている。
時折山や街角のシーンが映り、静かで薄暗い画面の中から牧歌的な空気が流れてくる。
山村に香る薪の煙の香りを想像すると、どこか遠くへ行きたくなる。
その料理が出来上がるまで、私はぼーっと画面を眺めていた。
庭の花にハチドリが蜜を吸いに来ている。
その日の朝は6時からワールドカップの試合があり、みんな早起きしてテレビを見ていた。
普段なら一週間で一番静かな日曜の朝の時間だが、近所の家からも歓声やラッパの音が聞こえてくる。
私もコスタリカ定番の豆ごはんと炒り卵、トーストにコーヒーの朝食を口にしながら試合を見ていた。
コスタリカは1-0で負けた。
試合が終わると、もう一度静かな日曜の朝が訪れた。各々が庭のロッキングチェアーに腰かけて揺られている。小さな子供を大きな体に抱く母親が目を閉じている。カバが耳をピピピと震わせ、鼻を風に当てている様だ。
雨季の空はうっすらと白けていて、風はない。
ぬるい空気の中に体が泳いで心身が弛緩したようになる。
時計が止まっている。
私は映画をほとんど見ないのだが、そんな私に友人が言った一言を思い出した。
「全部をがんばってみなくてもいいんだよ。良かったシーンとか、役者の演技とかさ、いい瞬間を探すように眺めるんだよ。そうすると、ストーリーがだめでも面白いとこが見つかるもんよ」
今朝はなんだか、そんな感じだ。
一日は瞬間のシーンの連続でつくられていて、それをコラージュして繋げながら毎日を形作っている。
田舎の何もない日曜日も、そんなにたいくつなことなどはないのかもしれない。
ここでの暮らしを過ごす人は、ただ流れていく時間を眺めながら、時間という川のほとりに佇んでいるのだ(この台詞は本で読んだ)。そういう時間や人生との付き合い方もある。
時間の川に追われて流されていく現代人よりも、ここの人たちはよっぽど賢いのかも、と思ったりもする。尊敬はされないが、大きな意味での人としての間違いや他人へ迷惑をかけることは少ない。
あぁ、宮沢賢治だわ。
暇や怠惰を軽蔑する人とは、もう上手くやっていけないかもしれない。
予定のない日曜は、予定のない日曜のためにあるのだと思う自分は、もうすっかりコスタリカ人になってしまった。
大太鼓をドンドンと叩きながら、北の火山から真っ黒な雨雲が下って来る。