Culture

2023/09/20
日本蜜蜂の養蜂・その8

忙しさにかまけて更新が間延びしてしまった。

まさに働き蜂のごとく働き田舎の夏を体感した。

 

我が家の軒先に置いた2つの捕獲箱には、今年も無事に日本蜜蜂が住み着いた。

冬場から長いこと気を揉んでいた蜂の誘因だったが、一度彼らの居住が決まればそこからは一変して全く違った心持ちになる。

今までの心配や不安は嘘のようだ。

椅子を巣箱の横におき、朝に夕にと飛び交う蜂を眺める毎日が再び始まった。

今年は雨が少なく気温が高かった。それは蜂にとって好条件だ。

みるみるうちに巣板は大きくなり、蜂の数も増えていった。

2ヶ月ほどで捕獲箱の中の9割ほどが埋まった。

 

こうなると箱を継ぎ足さないといけなくなる。

捕獲箱とは異なる重箱式巣箱の下駄をはかせた。これでいくらでも巣板を下へ下へと伸ばすことができる。

しかし、巣板の拡張の勢いはいきなり鈍くなってしまった。まだ下駄を履かせていないもう一つの巣箱も同様だった。冬眠手前まで全力で板を拡張することはどうやらしないらしい。これからは個体数を増やすよりも貯蜜に精を出すのかもしれない。

せっかく箱を継ぎ足したが、これはこれで仕方がない。

 

 

 

 

久しぶりの休日の何もない日。

そろそろ今までの巣箱の出入り口を塞いで、下に履かせた巣箱の出入り口の方を玄関として慣れさせようと思いたった。これまでの出入り口の辺りまで巣が伸びてきていたからだ。冬場は外気を凌ぐためにここの入口もいずれ塞いでやらないといけなくなる。

木板を適当に切ってビスで入口を塞いだ。

外から帰って来た蜂たちはたじろいで入口付近を右往左往している。きっとすぐに新しい入り口に馴染むだろう。そう思っていた。

 

家のことをやる合間も蜂の巣箱は目に入る。

洗濯をする。巣箱が目に入る。掃除機をかける。巣箱が目に入る。お茶を飲む。巣箱が目に入る。本を読む。巣箱が目に入る。料理をしながら、巣箱が目に入る。トレイに行くついでに、巣箱が目に入る。

昼寝しようにも、巣箱が目に入る。

こうやって四六時中観察しているが、一向に蜂は新しい出入り口を使おうとしない。20匹のうち1匹くらいの割合なのだ。塞がれた出入り口の周りに群がるものが大半だが、習性からか上へ上へと向かうもの、箱の周りをグルグルと周回するもの、かろうじて隙間のある板と板の間に頭を突っ込むものなど、とても見ていられない。この日も暑くいつものように30度をかるく超えている。エアコンのない私の家の中の居心地は正直辛い。その重苦しさも相まって、巣箱の中の蒸し暑さをつい想像してしまう。

 

「いきなり入口を塞いでしまったが、これは大丈夫なのだろうか」

 

・・・そんなことが一瞬ふと頭をよぎると、もうそのスイッチが入ってしまい、他のことは手につかなくなってしまう。私はそういう質だ。

いつになっても一向に新しい出入り口を使わない蜂は、ただ気がついていないだけなのだろうか。

それとも、他に何か理由があって是が非でもいつもの玄関から巣へと辿り着きたいだけなのだろうか。

私はいつでも彼らにとって最善を尽くしたいと思っているが、彼らの声を聞くことはできない。

いっそブスリとその針で刺してくれればすぐにでも考え直してその入口を解き放つのだが。

だが、もう少し待てば下の入口に馴染むようになるかもしれない。せっかくここまで待ったのだから。

いやしかし、蜂たちの動揺は尋常じゃないぞ。このまま巣に入れずのたれ死んでしまったら・・・。

 

私はだんだん追い詰められてきて、消耗を感じた。

本当はこの入口を塞ぐ作業のことは前々からやらなくては思っていたことだった。しかし何かと理由をつけて先延ばしにして今日に至ったのだが、ぐずぐずとしていた本当の理由があった。多分きっと、私は蜂の動揺をする様を見たくなかったのだ。

半日近くトラブっている彼らを横目に私の貴重な休日はすり減っていっていた。

夕方が迫っていた。

 

「板をはずすか?」

 

子育てには正解がないという気分を存分に味わいながら、私は結局板を外すことにした。これは彼らにとってか、自分にとっての行動なのか、よく分からなかった。

ピアノ教室にいやいや行っている子供を解放してやる感覚だと思う。

つまりそれは、親の自己満足だった。

蜂は主張を続けた結果今までの入口を手に入れた。私はというと、残念というか、こんちくしょうな気分になっていた。構想から今日1日をかけて新しい玄関への以降を試みたが、それは全く受け入れられなかった。良かれと思ってやったのに。

 

しかし私は学んだ。手をかけすぎだ。

知ったこともある。蜂は完全に私という存在を理解しているということだ。なにせ、彼らは何度近づいても私を刺さなかったし、顔や体に体当たりして八つ当たりの態度をとることをしなかったからだ。

私が蜂に対して「飼う」という表現は本来使うべきでなかったのだ。彼らは我が家の軒先に住んではいるが自立している。しかし反面、私と何も関係がないとは言えないことも確かなことだった。今回のようなストレス状態にありながらもただただ私を放っておいたのはそういうことだ。私はとりあえず許されている。それ以上に彼らが私をどう認識しているかということは、今のところまだ私の範疇ではない。

 

入口を解放したことは長い目で見て正しいのか私には分からない。これが原因で冬を越すことができないかもしれないからだ。

しかし、絶対にこの選択は正しかった。

何故ならこれは蜂が選んだ結果であって、越冬できなくともそれは彼らの選択の故だからだ。

彼らの生であって、私の生ではない。

しかし、私の生はいつも彼らとあることも確かではないのか。

 

なんだ、今回もまた私が学ばされただけではないか。

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