コスタリカで日本語を勉強している学生のための音楽会で、BGMを担当することになった。日本人、コスタリカ人が楽器の演奏やカラオケをする交流会のようなもので、文化交流の意味合いもあるようだ。
和モノ縛りの選曲は初めてだし、多分カフェのような場所で、みんな座ってのんびりした雰囲気だろう。
日本語、日本語、日本語、と思いながら一日中曲を探す。
細野晴臣、大貫妙子、キセル、UA, 高田渡、矢野顕子、坂本慎太郎、ゆらゆら帝国、美空ひばり、山下達郎、スチャダラパー、くるり、NAOITO,はっぴぃえんど、荒井由実、ハナレグミ、どんと、井上陽水、YMO、児玉和文、Little Tempo、クレイジーキャッツ、江利チエミ、たま、上原ひろみ、ピラニアンズ、Determinations, あとはラップとインストがちょこちょこと・・・。
という偏り具合になり、今どきの曲もオリコンも無関係になってしまった。
日本語の曲ばかり聞いていると、なんともエモくなる。
久しぶりに母国語を浴びるように聞いて歌詞を感じることももちろんだが、メロディーや日本的「個人」感が泣きを誘う曲がなんと多いことか。
愛というワードがもろにこぼれ出している歌詞や、過度に叙情的すぎる展開なんかは、それが日本語で歌われることに乗っかって、聞いていて気恥ずかしくなってしまう。そういうのは青春時代に一人イヤホンで聞くような内側の音だ。日本人はこれに哀愁や刹那とかを感じるだろうが、公共の場で聞いたりカラオケで歌ってしまうのは何か、痛い。
柳田国男曰く、昔の人は色にもわざとくすみをかけて、地味な色彩を使うようにしていたらしい。それは、人々が色彩にあまりに敏感であり、あまりに痛切なためだというのだ。
現代人が直接的で比喩のない歌詞や分かりやすさ大好きーなのは一言に、現代人が馬鹿で鈍感だからだ。自民党の杉田みたいな奴だ(言い過ぎました。謝ります。)
音や歌詞に芸術的エフェクトがかかりすぎるとアンダーグラウンドになってしまって、誰もが公で一緒に聞けるようなポップさが足りなくなってしまう。(坂本慎太郎さんは本当にはすごい)
上のアーティスト達が一世代前なのは、時代がアートとしての歌詞を許容できるかっこいい大人がいたからだと思う。(あぁ、またこの展開、ごめんなさい)
やっぱり「いい時代」はあったんだ。きっと今でもあるのだろう。知らないだけだ、きっと。
日本の曲ってダンスミュージック少ないなぁ。
海外のクラブとかだと、みんな仲間内で音を楽しみに来ている光景の方が多いけれど、日本は見たいDJを見に行く聞きに行くというのは結構普通なことで、一人だって気にならない人はいる。だからみんなライブをみるようにDJブースに面が向いている。
音と一対一なのだ。
そんなことをぼんやりとしながら、両方のいいとこどりで日本のグッドミュージックを選曲したい。狙うのはインナートリップかつ、会話ができる温度感だ。
いいアーティストがいたら、ぜひ教えてほしいです。