本当は一日だけで終わるはずだった断食をもう一日延長してやってみることにする。
空腹感はなく朝の気分は爽やかだ。
今日はZOOMで面接がある。
流石に少し心配になって栄養を摂ろうとトマトジュースをちびちび飲む。トマトの出汁が口の中に拡がる。なるべく吸収を良くしようと唾液とまぜながらゆっくり胃の中に落とし込んでいく。それにつられて腹が減ることもないし、気分はお茶を飲んだ後と変わらない。
久しぶりの社会的な面接は久しぶりに緊張したが、30分ほどのそれは滞りなく終わった。
頭も相変わらず冴えている。
川へ散歩しに行く。
手足の末端が若干冷えているのでよく着込んだ。
水辺にはカモの群れがいて春の日差しを背に浴びている。
カモはいつも満腹になるまで食べるんだろうか。
ライオンならば食べて寝ていてもいいけど、カモはだらだらと食後に寝ていたら狸とかの動物に襲われたりするんじゃないのか。寝ていてもいきなり目覚めなくてはならないから、侍みたいになんどきもある程度の緊張感をもって暮らしているのではないか・・・。
そんなことを思うと川の対岸には大きな竹の雑木林が茂っている。
今の私の気分はカモよりこの竹に近い。水分と土からの栄養、空気と太陽の光。それが食べ物だ。極力動かないで、生きながらに瞑想しているかの様な気分・・・。
なのでちょっと似ている。
植物と動物は分けて考えられるが、人間が本来どのように生きるべきかをある程度選択できることを考えると、他の生き物の生存方法を真似するのはひとつ賢いかもしれない。
小食や断食が社会や生産とは真逆に位置しているのを感じる。
食べることについてぼーっと考えならが1時間半かけて家に帰った。
やたらいい天気だ。
1日3回の食事がなくなると生活の中の時間配分がいつもと大分変る。
食べる時間に予定を合わせなくていいこと以外にも、何を食べようか、どこで買おうか、冷蔵庫の中に何があったか、だれと食べようか、どうやって調理しようかという考え事や、その後の片づけのことを考える必要がない。
食べなくなることで生まれる時間は膨大だ。
最近ベジタリアンに切り替えた友人は食事を変えたことで社交が変わったという。外食したくても食べれる店が少ないし、一緒に食事ができないと交友関係も変わる。
そういえば周りを見れば私の友人はいつからか酒飲みばかりになってしまった。
口にするものが違うということは、相性とか趣味という話でなく、物理的に一緒にいることができない状況をつくり出すのかもしれない。
つまり、一緒に食事をするということは大きな意味を持っている。
もちろん、どんなものを口にするのかも。
水が塩素臭い。
そう思ったのは朝、歯を磨くときに口に含んだ流山市の水道水だった。
断食は人間性の回帰を垣間見せるかもしれない。
つづく。