Culture

2025/11/25
写真論

 

6月以来、旅が全くできておらず、何を書こうかと悩んでいる。

ひよっこインターンの琉慎です。

 

そういえば、自分の「写真」についての考えをあまり人に話したことがなかったので、ここで少しばかり熱く語ってみるとするか。

 

私が写真に興味を持ち始めたのは2020年。高校2年生の時だった。

それまでは、私が撮る写真は斜め。全て斜め。斜めがかっこいいと思っていた。

まあそのあとも割と斜めで撮ったりすることもあったんですけどね。

ただ、写真を「撮る」ということへの魅力を知った。そこが入り口だった。

当時、同級生というよりは1個上の先輩の仲がよく、その中にやたらセンスのいい先輩がいた(後に2025 sonic maniaに出ることとなる)。

経緯は忘れたが、その先輩含め3人で下北沢に遊びに行った。

自分は、映像文化と自己表現という授業課題で、地域のPR動画を撮るというミッションがあったので、それついでのつもりだった。
(その授業も、先輩方のおすすめでとったものである。)

そこで、初めてフィルムカメラというものを私は見た。sonic maniaの先輩が持ってきていた。

最初は、そのカメラの仕組みが何がどうなってどうしているのか微塵もわからなかった。

ファインダー?シャッター?フィルムを入れて巻く?

ただ、なぜか自分も写真を撮ってみたくなった。やすい言葉で片付けるなら、「映え」とか「エモ」を求めて。

とりあえず自分がいいなと思うものを片っ端から、手持ちのiPhone 8で撮ってみた。

ロケーションがロケーションだったので、なんか様になったような写真に心が躍った。

この日を境に、写真を「撮る」ということが日常になった。

通学の時、出かける時、散歩する時、塾に行く時、色んな時にアンテナを張るようになった。

もっとも、私の目を引いたものは、「注意書き」と「空」だった。

今でも変わらずその2つは大好きだ。

ただ、この時はまだ、人には興味がなかった。無機質なものをとにかく追い求めていた。

そんなこんなで、あっという間にiPhoneの写真フォルダはいっぱいになっていった。

高校卒業する頃には、なかなかマシな写真が撮れるようになっていた。

 

第二の転機は、フィルムカメラを買ったことだった。大学1年生の秋。

東京のあるカメラ屋さんで見つけた1台に一目惚れした。当時の自分には3万円という価格は高く感じ、悩んだ末購入した。

PENTAX SL 。なんと驚き、1968年の機種。半世紀ちょっとも生きててだいぶ先輩なカメラを相棒に迎えた。

なんといっても黒いボディに、塗装剥がれから顔を出す金色。そしてシャッター音とその重量感がくせになった。

この時から、人を「撮る」ということを覚えた。

撮り始めてみると意外と面白い。ただ、同時に怖さも覚えた。

しかしながら、そのギャップがさらに私を沼へと引きずり込むのであった。

サークルの思い出、知人の写真、街の風景に人を入れるように写真を撮ったり…

次第に人が映る写真も増えていった。

親から譲り受けたコンデジも相まって、さらに写真熱は加速した。

 

そんなこんなで昨日メルカリでsony a6300を購入したわけですが、楽しみで配送ステータスを5分おきに確認していました。

さらに写真熱に油を注いでエンジンフルスロットルになりそうで、ワクワクですが、

肝心の写真論とは、なんぞやと。

 

自分が写真をどう捉えているのかとそのこだわり。

まず写真とは、「時間という止まることのないものに対して、その瞬間を切り取って留めておくことができる」ということである。

つまり、写真は時間に対するアンチテーゼなわけだ。と同時に、その瞬間を保存できる利器なのだ。

そんな写真を撮ることのできるカメラ。ただ、それに固執してはいけないと私は思う。

なぜなら、人間の体にも高性能なカメラが備わっているからである。いや、人間の体自体がそれであると言っていい。

目というレンズに、耳というマイク、脳という記録媒体、それに加えて触覚、嗅覚まで備わっている。

写真や動画には匂いがついたりなんかすることはない。これは人間が持って生まれたハードディスクなのである。

故に、自分の体を使って、その瞬間を感覚で感じること。これがすでに写真なのであると私は考える。

人は生まれながらにして、皆「人生を懸けた写真家」なのだ。

だからこそ、私たちは目の前の画面と、そのカメラに頼ることなく、今を精一杯感じることが人生のミッションであり、大事なのである。

そして、この瞬間ということに敏感になることで、俗にいう「いい写真」が自ずと撮れるようになる。それは、技術の問題ではない。

どれだけ、瞬間について触れ、感じ、考えたかである。そういう写真には技術をも超えた、「時間の躍動」が現れるのだ。

 

こう瞬間について偉く語っていても、私は時間にとてもきっちりしているとは言えない(前に比べたら随分ましになったが、まだ寝坊をして反省することがよくある。なんなら本日寝坊をしてしまった)。

自分の意に反して、時間は止まることなく流れ続ける。1分、1秒が積み重なって1日、1年と経過していく。

その1分1秒でさえ、カウントすることのできない細かい時間が積み重なっている。

もっと、その細分化された時間を大事にし、今を全力で感じ取って全力で生きていたい。

その時、運よくカメラを持っていたら、その瞬間を誰かに共有できたらいいなと思う。

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