Culture

2017/04/12
海外でのクールな読書

コスタリカで暮らし始め半年が過ぎた。

過ぎ去った時間に比例することなく見事に伸び悩むスペイン語の反動か、日本語の本を貪るように夜な夜な読んでいる。

首都にあるボランティ保養所には代々ため込まれた400冊ほどの本があり、専門書や自己啓発本、ダブって置いてある村上春樹と漫画を除くと、残った小説は250冊くらいだろうか。

選り好みはあまりできないが日本語で書いてあるならよしよしよしと思い、普段読まない時代小説や恋愛小説もぱぱぱと手に取って持ち帰っては、夜な夜な活字の海に溺れている。

 

 

 

 

海外である程度長い旅をしたことのある方はお分かりかもしれないが、しばらくの間日本語から離れていると無性に活字に触れたくなる。

外人が泊まっていそうな宿に泊まる度に本棚の隅から隅まで日本語の背表紙を探し、「世界の地理」とかいう旅に向かない分厚くてストーリーの全くない本を見つけて前の持ち主の趣味を疑ってしまう瞬間であったとしても、「・・・やった」と思える程に活字は魅力的なものになる。

 

そんなとき、私の場合は「何かを理解したい」という気持ちになっている。

それは、外国にいると言葉以外でも理解に苦しむことが多く、知らず知らずのうちに苛立ちがつのったり世界が意味不明で自分とは関係のないものに思えてくるからだろう。(理解できても意味不明なことは多いのだけれど)

なので、旅先で久々に触れる日本語の読書は、話しの行方や感情の推移を流れるように追っていくことのできる心地いいトランスの快感である。

ラピュタのワンシーンのように「分かる、分かるぞ!」と思いながら、寝苦しい乾季の夜の読書には切りがない。

 

 

 

 

そうやって、聞いたこともない作家たちの様々な活字で毎晩キマッテいると、広い海外に出て来ているはずの自分の世界の狭さに気が付いて、ある日ハッとした。

 

日本の外にいるから広い世界に今でて来ている、のではない。

世界が広いと思っている自分がいるから、実は世界が広いのだ。

今コスタリカにいるからコスタリカに色に染まらないと損、負け、時間の無駄、なのではない。

コスタリカにいる自分が日本で育ってきた人間であって、見知ってきたことを自分が知っていると自覚して日々を暮らす方がよっぽど大切だし、幸せだ。

なんのために生きてんだ。

そんな自分が、コーヒー畑を、亜熱帯雨林を、ビキニのねーちゃんを見て、多元に無限にある差異に気が付くから、ここにいることが今面白いのだ。

足元をすくわれてしまうと、風船のようにまたふらふらと空へ飛び立って行きそうに誘われる。

 

だから、今は沢山本を読めばいいのだ。

そのうち、私はまた自分の好きな土地へと去っていくのだから。

 

 

スペイン語や日々の小言は少し置いといて、単純に読書の時間が沢山あって最高に幸せです。

 

コスタリカでする日本語の読書は最高にクールだ。

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